北虜南倭による明朝の衰退

明・清代の中国と近隣国
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前回、
http://rekishi-sogo/blog/2017/12/24/5682
において、朝貢貿易が拡大する明朝でしたが、
永楽帝の死後は、朝貢貿易が拡大することはありませんでした。
「北虜南倭(ほくりょなんわ)」への対応が
忙しくなるからです。
今回は、北虜南倭によって、
明朝の衰退を見ていきましょう。

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北虜南倭とは?

北からはモンゴル系の部族・オイラトやタタールに苦しめられ、
南からは倭寇(わこう)によって、南部の沿岸を襲われた苦労を
まとめたものです。

北虜とは?

北虜とは、モンゴル系の部族オイラトやタタールからの圧迫のことです。

土木の変

土木の変(どぼくのへん/1449年)は、正統帝(英宗)が捕虜になった事件です。
オイラト部のエセン=ハンが
モンゴルを従えた強力な軍事力を背景に
交易求めて、明へ南下します。
対する明朝は第6代の
正統帝(せいとうてい/英宗/えいそう/在位1435年~1449年)は
自ら軍を率いて討伐に向かいました。
土木堡(どぼくほ/河北省北部)で明軍は全滅し、
正統帝は捕虜になりました。
明は弟(景泰帝/けいたいてい)を即位させ、
北京防衛につとめました。
エセン=ハンは北京をなかなか落とせず、
和議を結び、正統帝は釈放され、
モンゴル高原へ引き上げていきました。

北京包囲

16世紀には勢力の衰えたオイラト部に代わり、
ダヤン=ハンの出現によって、モンゴル東部にタタール部が勢力を伸長します。
やがてダヤン=ハンの孫のアルタン=ハンが指導する
タタール部が1550年に北京を包囲し、明朝を圧迫します。
アルタン=ハンは青海やチベットも勢力下に組み込みました。

「長城」

明はオイラト部の侵入以降、長城を増築・整備して北方民族の侵入に備えました。

このときの長城が現在のもので、
東の山海関から西の嘉峪関(かよくかん)までの間には、
二重に登場が張り巡らされたところもあり、
その全長は延べ2400kmにおよび、
さらには一定の距離をおいて、
望楼や砦が配置されています。

南倭とは?

明の南海でも倭寇の被害に苦しめられました。
倭寇は武装した商人や海賊から構成されました。
元代から倭寇はみられました。

前期倭寇

明は国ができた当初から倭寇の対応に困まり、
洪武帝は日本の室町幕府にその対処を求めました。
室町幕府将軍・足利義満は、
朝貢貿易の利益を目的に、
1404年に遣明船を派遣し、
勘合貿易をはじめました。
勘合貿易をはじめたため、倭寇は減少しました。
このように日本人が中心となった
初期の倭寇を前期倭寇といいます。

後期倭寇

16世紀になり、室町幕府の統制が効かなくなると、
再び倭寇が増加します。
これに加えて、明では永楽帝以降、海禁政策が強化され、
民間貿易や海外渡航が禁止されました。
海禁政策に不満を持つ中国人が日本人と結託して、
さかんに密貿易や海賊行為を行うようになりました。
この中国人主体の倭寇を、
後期倭寇といいます。
後期倭寇は、こうして増大する倭寇に対して、
明は戚継光(せきけいこう)を派遣して討伐させました。
そうすると、ようやく倭寇の勢いが衰えました。
また、日本の豊臣秀吉が天下を統一し、
倭寇を厳重に取り締まったために、
16世紀末にはその跡を絶ちました。

まとめ

このように北虜南倭に苦しめられた明朝でした。
海禁政策を緩めざるをえなくなった結果として、
日本銀やメキシコ銀が貿易のトレードオフとして
大量に中国に運ばれました。
国内における銀の流通はさかんになり、
貨幣経済が国内中に浸透していきました。
中国の貿易商たちは、東南アジアへ進出し、
各地に中国人町を建設していきました。

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