守護と地頭の設置~鎌倉時代の実質的始まり~

鎌倉時代
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源頼朝追討の宣旨

1185年10月、
後白河法皇は源頼朝を討つ命令を源義経に遣わします。
この動きを知った源頼朝は、
土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)に命じて、
京都で源義経を襲わせますが、失敗します。

義経追捕の院宣

源頼朝は、
京都へ大軍を送りました。
そこで、
源頼朝追討の宣旨の撤回を求めるとともに、
裏切者である源義経を討つ命令を朝廷に出すよう求めます。
大軍を見て慌てた朝廷はこれに応じ、
義経追補の院宣を出します。

文治の勅許

また、源頼朝は源義経の逮捕するために、
全国に守護・地頭を設置する権利を朝廷に認めさせた。
これを文治の勅許という。

守護・地頭の設置

守護・地頭設置の献策者

守護・地頭の設置を建議したのは大江広元(おおえのひろもと)です。
彼は財政を扱う公文所の初代別当にも任命されていましたね。
http://rekishi-sogo/blog/2018/09/29/6024

守護

守護は各国に1人ずつ、東国出身の有力御家人が任命されることになる。
守護は大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)という仕事を担っています。
また、守護は地方行政にも関与しました。
鎌倉時代にも朝廷から国司は依然として任命されていました。
実際の国の行政はもっぱら現地の有力者である
在庁官人が司っていました。
守護は在庁官人への命令権を駆使して、
しだいに国衙の支配を進めていきました。
とくに東国では、最も有力な在庁官人=国内で最も有力な武士という構図が定着し、
さらにその武士が御家人として、守護に任じられました。

  • 相模国の三浦氏
  • 下総国の千葉氏
  • 下野国の小山氏

など、
国衙の機能はほとんど守護のいる守護所に移され、
守護は強力な地方行政官として働きました。

大犯三箇条とは?

大犯三箇条というのは、

  • 大番催促(おおばんさいそく)
  • 謀反人の逮捕
  • 殺害人の逮捕

という3つの職掌です。

大番催促とは?

大番催促とは、任国内の御家人を京都大番役につかせるものです。

地頭とは?

地頭は、はじめは国地頭と呼ばれていたのですが、
すぐに廃止され、いわゆる荘郷地頭(しょうごうじとう)となりました。
はじめは平家没官領(へいけもっかんりょう)や謀反人の所領に配置されましたが、
その後は、荘園と国衙領に配置されることになります。

地頭の仕事

地頭の仕事は土地の管理です。
土地のことを下地というので、
下地管理という仕事名でした。
その下地からあがる年貢の徴収。
さらには地域全体の治安維持。
これらが地頭の仕事でした。
ですから地頭の権限を整理すると、
管理権・徴税権・警察権ということになります。

地頭の収入

収入には、土地の慣例に従うものが多く、
一つに定まったものではありませんでした。
地頭の中には、反別5升の兵粮米を徴収する権利を与えられる者もいました。
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