平氏没落を早めた「鹿ヶ谷の陰謀」

平安時代後期

平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~で 平氏が官職の独占によって、全国の支配をはかりました。   しかし、独占によって、旧勢力である 追いやられた公家勢力から強い反発を 受けることになります。

建春門院の死去

平清盛の妻の姉妹である建春門院は、 後白河法皇の妃でした。   建春門院が1176年に亡くなると、 平氏と後白河法皇や院近臣との間で、 対立が深まりました。

鹿ヶ谷の陰謀

  1177年(治承元年)には、 法皇の近臣である 藤原成親(ふじわらのなりちか)や、 西光(さいこう/藤原師光/ふじわらのもろみつ)俊寛(しゅんかん)らが 京都・東山の俊寛の山荘で鹿ヶ谷(ししがたに)で、 平氏打倒の密議を執り行いました。   ところが、多田行綱(ただゆきつな)という人物の密告で 公にバレてしまいました。   こうして鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は失敗に終わったというわけです。   俊寛は鬼界ヶ島(きかいがしま)に流罪。 藤原成親は備前に流罪。 西光は死罪となりました。          ]]>

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