明朝時代の農業の発達~湖広熟すれば天下足る~

明・清代の中国と近隣国
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佃戸制の継続

長江下流域の豊かな穀倉地帯の経済力を背景に
洪武帝は全国統一を成し遂げました。

洪武帝は当初、
元末の混乱で荒廃した土地の私有を認めたり、
労働人口が不足している土地に農民を移住させたりして、
耕地の拡大と農業生産力の回復に力を注ぎました。
また、桑や綿花を植えることなども奨励しました。
一方で奴隷や佃戸をもつ大地主や富豪を弾圧しました。
しかし、大地主規制は一部にとどまり、
長江下流域の江南を中心として大土地所有と佃戸制は存続しました。

参考リンク

http://rekishi-sogo/blog/2014/05/29/109
http://rekishi-sogo/blog/2014/10/12/129
http://rekishi-sogo/blog/2014/11/12/404
http://rekishi-sogo/blog/2014/10/05/124

二期作のはじまり

華中・華南では、
品種改良などの農業技術の進歩にともない、
米の二期作も行われるようになり、
長江下流域の江南デルタ地帯は
稲作の一大中心地となりました。

家内制手工業による綿織物や絹織物の広まり

15~16世紀頃から、
長江下流域の農村や都市では、
綿織物や生糸などの家内制手工業が盛んになりました。

綿織物や絹織物が盛んになった背景

長江下流域で綿織物や絹織物がさかんとなったのは、
宋代以降この地が
「蘇湖熟すれば天下足る」と
いわれた最大の穀倉地帯であったために、
重税や小作料を負担させられた農民が、
その支払いのための副業としたことにはじまります。
とくに木綿は大衆の衣料として、
需要が広まり、その収入は農民の家計を助けました。

綿花栽培

綿花は唐代の頃から栽培され、
元代には各地に広まりました。
明では、洪武帝の奨励もあって、
綿花栽培は中国全土に普及しました

とくには中期以降、
江南デルタ地帯の松江(しょうこう)を中心に
飛躍的な発展を遂げました。
また、綿花栽培のために、
水稲栽培から綿花栽培に切り替える農家も増えました。

南京木綿

清代には、南京木綿として、広州からヨーロッパへ、
またキャフタを通じてロシアへそれぞれ輸出されました。

絹織物

蘇州や杭州を中心に絹織物もさかんとなりました。

桑栽培

養蚕に必要な桑の栽培がはじまりました。
そのため、水稲栽培から桑の栽培に切りかえるところが、
増加しました。

「湖広熟すれば天下足る」

以上のことから
稲作の中心地であった江南デルタ地帯は、
次第に水田が減っていきました。
また、都市には手工業の発展に伴い、
非農業人口が多く流入しました。
そのことから、
江南の食料は他の地域に頼らざるを得なくなりました。
こうして、16世紀はじめに、
湖広を中心とした長江中流域が新たな穀倉地帯として、
重要な位置を占めるようになり、ついには、
「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになりました。
湖広とは、現在の湖南省・湖北省のことです。
天下足るとは、穀物が実れば、国民全員にとって充分である。
という意味です。

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